事件発生
平成6年6月27日深夜から翌28日未明にかけ、長野県松本市北深志地区の住民多数が嘔吐、視野狭窄、痙攣などの症状を起こし病院に搬送された。体調不良の原因は判明せず、8人が死亡し、重軽傷者約600人に及んだ。
警察の捜査で、河野義行氏宅の被害状況が際立ってひどかった。池のザリガニが腹を上にして水面で死んでおり、庭の笹はすべて茶色に変色していた。体調不良の原因物質は河野氏宅で発生しているような状況であった。河野義行氏は体調不良で病院に搬送され、河野氏の妻は意識不明で病院に搬送された。
河野氏は薬品会社の課長職にあり、同人宅の小屋には数十本の薬品の瓶があった。警察は河野氏が薬品を調合していてなんらかの毒ガスを発生させたのではないか、と判断し家宅捜索の令状を取り、6月28日朝に河野氏の自宅を捜索し数十本の薬品を押収した。河野氏は病床で捜査員から何度も事情聴取され、弁護士を頼んで警察に対抗した。
しかし事件発生の夜、ある捜査員が「平ボディーのトラックに宇宙服のようなものを着た人が乗っていた」との聞き込みを得ていたが、捜査本部では河野義行犯人説で固まっており宇宙服の情報は埋もれてしまった。
警察の捜査
押収した薬品の鑑定、体調不良を引き起こした物質の特定などの捜査をしていたところ、7月3日ガスクロマトグラフィーにより毒ガスのサリンと判明した。サリンは自然界には存在しないものであり、製造した者がいるのだ。第二次大戦中、旧日本軍が毒ガスのサリンを製造した記録があるものの、それ以外はサリンは日本では存在しなかった。
3週間後科学警察研究所から、河野氏宅から押収した薬品をどんなに掛け合わせてもサリンはできない、との鑑定結果が報告された。サリンが河野氏の薬品から発生したものでないことが判明し、捜査は膠着状態となった。サリンが自然界には存在しないものであり、誰が製造したのか皆目見当がつかなかった。
サリンの追跡
長野県警がサリン生成に必要なメチルホスホン酸ジメチルの流通ルートを探ったところ、唯一個人購入している世田谷区のT.Kという不審な男を発見した。住所に行ってみるとオウム真理教関連の団体が入るビルであった。「ベル・エポック」という会社も同薬品を大量購入していたが、これはオウムのダミー会社であることが分かった。さらに「下村化学」「長谷川ケミカル」「ベック」などの同様のダミー会社も見つかり、オウムのサリン疑惑は深まっていった。
その頃、山梨県上九一色村に建設中のオウム施設第七サティアンプラントの事故により、周辺で異臭騒ぎが発生していた。長野県警・山梨県警合同捜査本部は土壌を採取し、平成6年11月土壌からサリンの最終分解物メチルホスホン酸が検出された。
オウム真理教への強制捜査
警視庁・長野県警・山梨県警合同捜査本部は、山梨県上九一色村のオウム施設第一サティアンから第十一サティアンに対する強制捜査を計画していた。密かに化学防護服、防毒マスクを準備し強制捜査従事警察官には拳銃携帯を指示していた。このとき警視庁の捜査員は志願者のみであった。サリンという猛毒の毒ガスを持つ集団の本拠地に乗り込むのであり、命の保証はない。このため、強制捜査従事警察官は志願者を募って捜査班を編成した。
強制捜査は平成7年3月22日決行としていたが、警視庁警察官のオウム信者から情報が洩れた。このためオウムは警察庁に出勤する警察職員を狙って地下鉄サリン事件を起こした。3月20日午前8時10分頃、東京地下鉄の千代田線、日比谷線、丸の内線の霞が関駅に向かう電車内でサリンを拡散させた。この事件で14人が死亡、重軽傷者約6、000人の被害者が出て未曾有の無差別テロ事件となった。
3月22日、警視庁・山梨県警合同捜査本部は予定どおり山梨県上九一色村の第一サティアンから第十一サティアンとその他のオウム施設に対する家宅捜索を実施し、大量のサリン原材料を押収した。同時に目黒公証役場事務長殺害事件などオウムが起こした十数件の事件で教祖麻原彰晃、井上嘉浩など複数の信者を逮捕した。
警察庁長官狙撃事件
3月30日、警察庁長官国松孝治が出勤しようとマンションの玄関口を出たところ銃で狙撃され、3発の銃弾を被弾した。一時危篤状態にまでなったが治療の甲斐あって持ち直した。この銃撃事件はオウムに対する強制捜査への報復ではないか、とオウムの関与が疑われた。
平成8年、警視庁警察官でオウム信者であったK巡査長が狙撃犯は自分だと告白し、警視庁は拳銃遺棄場所の捜索など懸命の捜査をしたが発見できず、K巡査長の立件を断念した。
平成20年、強盗事件で服役中の東大卒自称革命家Nが長官狙撃事件を告白し、銀行貸金庫に保管した銃器類が押収されたが、長官狙撃に使用した拳銃と実包は八丈島に向かう船の上から海に棄てた、とのことで逮捕もされず現在も服役中である。
国松長官狙撃事件は平成22年、未解決のまま公訴時効が成立した。
松本サリン事件の真相
オウムは松本市に開設した道場を巡り訴訟を抱えており、判決が平成6年7月に迫っていた。この訴訟の延期を目的とし、また土谷正実が製造したサリンの効果を実験するため麻原彰晃がサリン製造責任者村井秀夫らにサリン噴霧を指示し、裁判官らの健康を害させようとしたのである。
サリン噴霧器を積載した2トン平ボディートラックを端本悟が運転し、村井秀夫が助手席に同乗して6月27日午後10時頃からサリンを裁判官宿舎に向けて噴霧した。トラックを駐車した場所は裁判官宿舎近くの空き地であり、空き地と裁判官宿舎の間に河野氏宅があったので河野氏宅がもろにサリンの噴霧を受け被害が特にひどくなった。そして端本と村井は化学防護服を着用していたので目撃者からは宇宙服のように見えたのだ。
オウムの信者たちは松本サリン事件、地下鉄サリン事件、坂本堤弁護士一家殺害事件など十数件の事件で逮捕・起訴された。死刑判決が確定していた教祖麻原彰晃、井上嘉浩、土谷正実など13人が平成30年に死刑執行され、オウムの死刑囚はいなくなった。