番狂わせな金メダルを獲得したアスリート

スポーツ

ショートトラック

2002年、アメリカのソルトレイクシティーで冬季オリンピックが開催された。このオリンピックの1000メートルショートトラックで、オーストラリアのスティーブン・ブラッドベリー選手(当時28歳)は番狂わせな金メダルを獲得した。

ブラッドベリーはオーストラリアでは第一人者であったが、このオリンピックではメダル候補ではなく誰もブラッドベリーには注目していなかった。

スティーブン・ブラッドベリー

準々決勝

ショートトラックは一周110メートルのトラックを5人がフリーコースで滑り、先着順に上位2人が次のレースに進出するもので、激しいコース取りとコーナリングが競われる種目である。小回りのコースであるため選手同士の接触による転倒が頻繁に発生する。

準々決勝でブラッドベリーは3位でゴールした。しかし、試合後の判定でカナダの選手が進路妨害で失格となって2位に繰り上がり、ブラッドベリーは準決勝に進出した。

準決勝

準決勝ではブラッドベリーは他の選手のスピードについて行けず、後方につけて戦況を見つめながら滑っていた。ゴール近くなって韓国選手が脱落し、ゴール手前で先頭の2人が接触・転倒してブラッドベリーは1位でゴールした。

必死に先頭争いをしていた3人がゴール前で転倒し、ブラッドベリーは悠々と先頭でゴールし決勝進出した。

決勝

試合前ブラッドベリーはコーチに対して、「最初から先頭に出て優勝を狙う」と申し出た。しかし、コーチからは「それは実力的に無理だ」とのアドバイスで、ブラッドベリーは選手達の後方につけて滑る作戦に出たそうである。

決勝がスタートし、ブラッドベリーは独り選手達から遅れて後方を滑っていた。上位4人の選手は激しい先頭争いを繰り広げて、目まぐるしく順位が入れ替わっていた。ゴール直前で上位4人の先陣争いが激化して4人が同時に接触・転倒した。

後方を滑っていたブラッドベリーは転倒した4人の脇をすり抜けて、両手を上げて笑顔でゴールし金メダルを獲得した。

ブラッドベリーが1位でゴール

競技後のインタビューでブラッドベリーは、「僕が金メダルを貰って良いのだろうか」と答えていた。ブラッドベリーは南半球では初めての冬季オリンピック金メダリストとなり、オーストラリアでは英雄となった。オーストラリアではブラッドベリーの切手も発行された。

200メートル平泳ぎ

1992年、スペインのバルセロナで夏期オリンピックが開催された。このオリンピックの200メートル平泳ぎで、日本の岩崎恭子は14歳の最年少金メダリストとなった。

岩崎恭子

全日本水泳選手権

1992年全日本水泳選手権はバルセロナオリンピック選考会を兼ねていた。100平泳ぎ、200平泳ぎは第一人者柏谷恭子と岩崎恭子の3才上の姉がオリンピック代表となるだろう、という前評判であった。ところが、試合が始まると岩崎恭子が姉を抑えて2位に入り、柏谷恭子と岩崎恭子がオリンピック代表に決定した。誰も岩崎恭子が代表になるとは予想もしていなかった。

バルセロナオリンピック

オリンピックを前にして選手達の結団式や壮行会が開催され、全日本選手権3冠の千葉すずや平泳ぎの第一人者柏谷恭子などがクローズアップされて応援された。岩崎恭子は全く無名の選手であり、誰も期待していなかった。岩崎恭子自身も「決勝に残れれば良い方だ」と言っていた。

予選

200平泳ぎ予選は第一次予選、第二次予選、第三次予選が行われ、岩崎恭子は泳ぐ度に自己ベストを更新して準決勝に進出した。バルセロナに入ってから伸び盛りになっていた。準決勝は2分27秒65の日本新記録を出し、世界新記録保持者アニタ・ノール(アメリカ)に次ぐ2位のタイムで決勝に進出した。

競技中の岩崎恭子

決勝

決勝が始まり、アニタ・ノールが最初からトップを泳いでいた。100メートルのターンで岩崎は体一つのリードを許していた。150メートルのターンで体半分のリードとなっており、後半に強い岩崎に期待が集まった。岩崎がグイグイ力強い泳ぎで進んで行き、対照的にノールはピッチが上がらなかった。

残り25メートルで頭一つのリードまで迫り、岩崎は快調に進んで行きノールとの差は僅かとなった。ゴール前1メートルでノールと並び、そのまま抜き去って岩崎は1位でゴールした。2分26秒65のオリンピック新記録で金メダルを獲得し、14歳の最年少金メダリストとなった。1936年ベルリンオリンピックで前畑秀子が200平泳ぎで金メダルを取ってから56年ぶりの金メダルであった。

誰も岩崎恭子には期待しておらず注目もされていなかったので、岩崎はのびのびと泳ぐことができた。期待された千葉すずや柏谷恭子はプレッシャーに負けてメダルには届かなかった。岩崎恭子は競技後のインタビューで「今まで生きて来た中で一番幸せ」と発言している。この言葉は日本国民に大きなインパクトを与えた。

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