昭和59年春の高校バレーで、共栄学園高校2年生のエースアタッカー益子直美は空前の人気選手となった。バックアタックのマコと愛称がつけられ、テレビの解説者は益子に注目し、テレビカメラは徹底的に益子を追ってブラウン管に映し出した。大会前は八王子実践高校の1年生で182センチの大林素子が圧倒的に評判が高く、八王子実践高校が優勝候補であった。益子直美は無名の選手で誰も注目しておらず、大林が注目の的であった。
準決勝
準決勝第1試合は西東京代表の八王子実践高校と東東京代表の共栄学園高校となった。共に1セットずつ取り、試合は第3セットへともつれ込んだ。八王子は大林のブロックやエース小松のスパイクで着々と得点を重ねた。共栄は益子がフォワードでもスパイクを決めバックに下がってもバックアタックを打ち、大車輪の奮闘で得点を取った。更に、益子のサーブはスパイクサーブであった。当時スパイクサーブは女子の筋力では無理だ、と言われ実業団でもスパイクサーブを打つ選手はいなかった。そんな情勢にもかかわらず17歳の女子高校生がスパイクサーブを打っていたのである。観客はバックアタックのみならずスパイクサーブにも度肝を抜かれ皆が益子に注目した。174センチの益子は182センチの大林のブロックに正面から立ち向かい、何度も大林に跳ね返されながらスパイクを打ち続けた。試合はシーソーゲームとなりジュースとなった。共栄がマッチポイントを握り益子にトスが上がり渾身のスパイクを打ったが、大林のブロックに跳ね返され再びジュースとなった。その後一進一退を繰り返し辛うじて共栄が勝利した。この試合で益子は観客の注目を一身に浴び、バックアタックのマコと愛称がつけられ注目の的となった。
決勝
翌日の決勝戦は大阪四天王寺高校と共栄学園高校となった。四天王寺の選手は益子にサーブを狙って打ち益子を疲れさせる作戦を取った。これに対して観客はブーイングをして抗議した。益子がサーブを打つときは観客が「益子さーん」とか「益子」と掛け声をかけ、サーブを打つ瞬間何百人もの人がカメラのフラッシュを焚いて写真を撮ったので体育館が白くなった。共栄は益子のワンマンチームであり、益子が調子良く打っている時は強いが益子が疲れると脆かった。前日の準決勝で66本のスパイクを打った疲れもあり決勝戦の益子は精彩を欠いていた。結局2-0のストレートで四天王寺が勝利し共栄は準優勝に終わったが、観客の益子に対する声援はすごいものがあった。益子がスパイクを決める度に、またサーブを打つ際体育館が割れるほどの益子コールが響き渡った。まるでアイドルタレントのような観客の声援が飛び交い益子の人気は頂点に達していた。
春高バレー以後
春高バレーが終了し選手たちは高校に戻ったが、共栄学園高校には益子宛てのファンレターが1日何十通も届き、差出人は女性が多かったそうだ。バックアタックのマコ、又は下町のマコとあだ名がつけられ、テレビのオリンピック特集番組にもゲストとして出演した。高校卒業後、日本リーグ(現Vリーグ)のイトーヨーカドーでエースアタッカーとしてプレーした。全日本にも選ばれて世界選手権などのビックイベントでプレーしたりしたが、オリンピック代表には入れずオリンピックには一度も出場できなかった。