東海大四高
昭和62年、札幌市の東海大四高(現東海大札幌高)が春の高校バレー、インターハイ、国体を制し三冠を達成した。このとき、東海大四高は6人中3人がサウスポーだった。バレーボールではコートの6人中サウスポーが1人か0人であるが、東海大4高は3人のサウスポーがおり世界でも珍しいチームであった。レフトの2人とセッター対角がサウスポーであり、レフトの2人がライトオープンを打ち、セッター対角がCクイックを打っていた。攻撃は全部右から来るものであった。
サウスポー選手
レフトの2人は清水克彦と南由紀夫、セッター対角が緒方正広であった。清水、南はレフトであり攻撃の中心であったが、センターブロッカーも務めており守備の中心でもあった。清水、南が展開するライトオープンは打点が高くシャープで、しかもサウスポーであったため右ききの相手選手にとってはブロックするのもレシーブするのも一苦労であった。そして、緒方がサウスポーから繰り出すCクイックを打つため相手チームのブロック及びレシーブは常に右からの守備を強いられた。
サウスポーの選手は普段右ききと戦っているため苦にならないが、右ききの選手はサウスポーと戦うことがめったにないためサウスポーと戦うことはハンディーが大きい。ヨーロッパに行っていきなり左ハンドルの車を運転するようなものである。東海大四高はサウスポーが3人もいたのである。相手選手たちは3人のサウスポー対策で四苦八苦していた。
サウスポーの強みを生かして東海大四高は春の高校バレー、インターハイ、国体の3タイトルを制覇した。清水、南、緒方の3人はサウスポーだったというだけでなく、日本一になるだけの技術・メンタルを持っていた。春の高校バレー1回戦では埼玉深谷高校に第1セットをとられ、第2セットも3-11とリードされて99%負けていた試合をひっくり返して勝利した。2回戦もまた逆転勝ちしている。土壇場でも動じない精神力を身につけた選手たちであった。
日立
平成6年、日本リーグ(現Vリーグ)の日立はセッター永富有紀、セッター対角大林素子、レフト村田美穂がサウスポーであった。6人中3人がサウスポーで、一時期センターにサウスポーの選手がレギュラーとなり6人中4人がサウスポーというチームとなった。しかし、センターの選手は実力が充分でなく2週間ほどでレギュラーから降ろされ、サウスポーは3人に戻った。永富、大林、村田の活躍でこの頃何度も日本リーグ制覇をしていた。サウスポーの強みを生かして独特のスパイクを決め、栄冠を勝ち取っていたのである。この時の日立は6人中3人がサウスポーということで世界でも珍しく、頻繁にテレビで取り上げられた。
昭和60年W杯
昭和60年のワールドカップではポーランド男子チームにサウスポーが2人いた。ポーランドは当時では珍しい2セッターだったが、セッターが2人ともサウスポーであった。ジズガとクオスという2人のセッターがトスを上げていた。ポーランドはメダルには届かなかったが、サウスポーの2人がトスを上げるという前例のないフォーメーションであった。今後も2人のサウスポーセッターというチームは現れないのではないか、と思う。