男子バレーボール
昭和37年バレーボール世界選手権で、日本女子バレーボールチームは絶対王者であったソ連を破って優勝し、東洋の魔女と名付けられた。このとき主将の葛西は最年長の29歳で、その他の選手も結婚適齢期を過ぎており世界選手権で引退する予定であった。
しかし、世界チャンピオンとなった女子バレーボールの選手達に日本国民は「2年後の東京オリンピックで金メダルを取ってくれ」と懇願した。大松監督以下選手達は更に2年間の猛特訓をし、東京オリンピックを迎えた。
日本は1回戦から順当に勝ち上がり、ソ連も勝ち上がって日本とソ連の決勝となった。第1セット、第2セットを日本が取り、第3セットになった。日本は着実に得点を重ね、14-9でマッチポイントを迎えた。ここでソ連が粘り、14-13まで迫ってきた。その後ソ連がオーバーネットの反則を犯し、日本の勝利となった。女子バレーボールの金メダルに日本中が歓喜した。日本バレーボール協会主催の祝勝会が開かれ、大松監督、選手そしてバレーボール協会関係者が祝杯を上げて金メダルを祝った。
男子バレーボールチームはこのとき銅メダルを取っていたが、誰も男子に気が付かず祝勝会に呼ぶのを忘れていたのだ。男子の監督、選手が怒ったのは当然である。世界で3番に入ったのに評価されない、ということは屈辱である。東京オリンピック後コーチから監督に昇格した松平康隆は、ミュンヘンオリンピックまでの8年計画を立てて男子バレーを強化した。4年後のメキシコオリンピックで女子が銀メダル、男子が銀メダル、8年後のミュンヘンオリンピックで女子が銀メダル、男子が金メダルを獲得した。男子バレーは悲願の金メダルに輝いた。
日本バレーボール協会の祝勝会に忘れられてから8年後に金メダルを獲得した。
フィギュアスケート 佐藤有香
平成4年アルベールビルオリンピックを前に、フィギュアスケートの伊藤みどりはトリプルアクセルを跳んで金メダルを目指す、と公言していた。オリンピックが始まり、ショートプログラムで伊藤みどりは尻もちをつき4位と出遅れた。優勝候補のクリスティー山口が順当に1位だった。フリーが始まり、伊藤みどりは序盤にトリプルアクセルに挑んだが失敗して転倒し、伊藤みどりのメダルは絶望的な状況だった。
演技開始から4分過ぎに再びトリプルアクセルにチャレンジし、見事に成功した。これで点数が伸び伊藤みどりは銀メダルを獲得した。日本人が初めてフィギュアスケートでオリンピックのメダルを獲得したのだ。日本の人々は歓喜して伊藤みどりの偉業を称賛した。
しかし、このとき一緒にオリンピックに出場していた佐藤有香は7位入賞していたが誰も気が付かなかった。伊藤みどりの銀メダルに国民が喜び、佐藤有香の入賞は忘れられていた。佐藤有香は、インスブルックオリンピック男子シングル代表で父親の佐藤信夫から指導を受け練習に励んだ。2年後のフィギュアスケート世界選手権で佐藤有香は優勝し、世界チャンピオンとなった。
2年前オリンピックで7位入賞しながら誰も評価しなかった屈辱をバネに練習し、世界チャンピオンに輝いた。