災い転じて福となす

バレーボール

猫田の怪我

昭和46年9月、全日本男子バレーボールのセッター猫田勝敏が試合中右腕を完全骨折した。ミュンヘンオリンピックまであと1年というところで、全日本の司令塔がバレーボールができなくなったのだ。昭和39年東京オリンピック後、コーチから監督に就任した松平康隆はミュンヘンオリンピックまでの8年計画を立て、セッター猫田を軸とした速攻・コンビネーションバレーで金メダルを獲ることを目指していた。クイック、時間差、移動攻撃などの複雑なバレーを展開するためには根元を単純にしなければならない、との理念でセッターは猫田一人と決めていた。控えセッターは置かず、練習から試合まで全て猫田が一人でセッターを務めていた。その猫田が腕を骨折したのだ。バレーボール関係者は青くなった。ミュンヘンオリンピックの金メダル計画に黄色信号が灯ったのだ。全日本には嶋岡という、レフト、センター、セッターいずれもこなす器用な選手がおり、嶋岡がセッターを務めて練習や試合をこなした。猫田が復帰するまでの8カ月間、嶋岡はセッターとして経験を積み腕を上げた。

ミュンヘンオリンピック

昭和47年9月、ミュンヘンに乗り込んだ全日本は猫田のトスで存分に暴れまわり、予選5戦全勝で準決勝に進出した。準決勝の相手は格下のブルガリアだった。誰もが日本の楽勝だと思っていた。しかし、試合が始まると天才セッターカーロフのトスに操られたバルカンの荒武者5人が次々と強烈なスパイクを日本コートに叩きつけた。特に、エースズラタノフのスパイクはブロックにかすりもせず、ほぼ100パーセント決まっていた。更に、レフト横田が持病のヘルニアを発症してベンチに下がってしまった。第1セット、第2セットを取られ、第3セットもフルガリアが突っ走り、いきなり0-3とリードされた。絶体絶命である。ここで、松平監督はセンターの若い2人をベテランに代えた。その後松平監督の打った手は信じられないものだった。セッター猫田をベンチに下げ、セッターを嶋岡と交代したのだ。松平監督は8年計画の最初からセッターは猫田1人と決め、控えセッターを置かずに猫田のトスで全て賄ってきた。その猫田をベンチに下げたのだ。監督は勝負を捨てたのか、と思った。

反撃

センター2人がベテランに交代し、横田もコートに復帰し、セッターが嶋岡に交代した全日本は猫田のリズムから嶋岡のリズムになり徐々に挽回を始めた。センターに投入された2人のベテランはフェイントと軽打を使い分け、ブルガリアのリズムを崩していった。ブルガリアの選手がフェイントを決められ、イラついてボールを蹴るシーンが見られた。メンバーチェンジが功を奏し第3セット、第4セットを取り試合を振り出しに戻した。第5セットに入り、再びブルガリアが息を吹き返した。3-8とリードされ、チェンジコートの直後、ブルガリアにブロックを決められ3-9とされたのだ。ここでまた、ベテラン2人が活躍し徐々に挽回した。第5セット後半、松平監督はセッター猫田を投入しカーロフと猫田のトスの上げ合いとなった。12-12から日本が3点を取り勝負を決めた。翌日の決勝で東ドイツを破り男子バレーは金メダルに輝いた。

猫田の骨折は大変な災いであったが、猫田が戦列を離れた間嶋岡がセッターとして腕を上げたのである。ブルガリア戦は猫田1人で戦っていたら負けていた。猫田の骨折で嶋岡がセッターの技術を向上させブルガリア戦を乗り切った。猫田の骨折がなかったら金メダルはなかった。猫田の骨折は災いであったが福をもたらした。

タイトルとURLをコピーしました