船山馨著「石狩平野」を読んで

読書感想文

小樽時代

主人公鶴代は、人足の父と日雇いの母との3人暮らしの貧しい少女である。鶴代は毎日、小樽港に着港した船の降船客に餅を売って生活費を稼いでいた。ある日、船が到着すると餅を売ろうと急いで渡し板を駆け上がって行き、渡し板の途中にいた官員とぶつかりそうになり、身体をひねって衝突をさけようとした弾みで餅を渡し板に落としてしまった。官員の息子が餅を拾ってくれたが自分の汚い身なりが恥ずかしくて、少年の視線から逃れるようにして餅を拾うふりをしていた。

明治14年、小樽を襲った大火により鶴代一家は家を失った。鶴代一家はもっと仕事の多い札幌に移住することになり、船で石狩川河口まで行きその後3人で歩いて札幌に向かった。

札幌

札幌に住むことになった鶴代一家は、父母が近所の農家の手伝いをし、鶴代は北海道開拓使少書記官の家に女中奉公することとなった。少書記官は小樽で鶴代がぶつかりそうになった官員であり、その息子は餅を拾ってくれた伊住次郎であった。

旧北海道庁

少書記官伊住道直は内閣参議黒田清隆の派閥に属していた。伊住道直は黒田清隆が推進する北海道官営事業払下げ疑惑を調査するため、伊住家出入りのランプ商人南部屋に東京の黒田清隆宛の書状を託し、黒田清隆の周辺の聞き込みを依頼した。

鶴代は伊住家で女中奉公しながら、伊住家の書生から読み書きなどを習っており、炊事、掃除、洗濯など毎日忙しく働いていた。鶴代は次郎のことが好きで、毎日次郎と顔を合わせることで張り合いを持っていた。次郎は札幌農学校に進学し、次郎の妹多佳子は函館女学校に進学し寄宿舎生活となった。

伊住家の没落

黒田清隆参議の調査を依頼していた南部屋は消息不明となり、南部屋の女将は跡取りとして出身地の山形県から甥の杉壮太を養子として迎えランプ屋を手伝わせていた。

黒田参議の調査を依頼したことで伊住道直は黒田参議から不興を買い、北海道開拓使の中で閑職に追いやられていた。更に、勧農協会係長職に出向させられた道直は上司と喧嘩し勧農協会を退職してしまう。伊住家では収入がなくなってしまい、次郎は農学校を退学し人力車曳きをして働いていた。伊住一家は平岸の貧民街に居住し、鶴代は丸山に住んでいた母と同居し荷車を曳いて野菜売りをし生計を立てていた。

明治18年伊藤博文内閣が誕生し、黒田清隆は内閣顧問に就任した。内閣は薩摩・長州閥で占められ、板垣退助などの自由民権論者ははずされた。内閣は自由民権思想を国民に広めたくないという思惑が垣間見えた。

鶴代と次郎

鶴代は燃えるような次郎への思慕を持ち、次郎も鶴代を愛していた。鶴代は伊住家に奉公していたときは次郎との結婚など身分違いで考えたこともなかった。次郎は、道直が先導したガラス工場放火事件の被害者の盲目の娘弘子を引き取って生活の面倒を見ており、また道直も半狂人となっていた。次郎は、「自分は道直と盲目の弘子にとって必要な人間であり、鶴代にも鶴代を必要とする人が必ずいるから鶴代とは結婚できない」と鶴代への絶縁を告げた。

納得できない鶴代は、芝居小屋の2階を借りて次郎を呼び出した。次郎の前で全裸になり、抱いて欲しいと訴えた。次郎と鶴代は激しく抱擁し結ばれた。鶴代は、次郎とは結婚できなくても次郎の子を産んで次郎と思って育てよう、と考えていた。抱擁の後、次郎は「結婚しよう」と鶴代に言ったが、鶴代は次郎を残して去ってしまった。

日本は清国に進出して利権の拡大を狙っていたが、日清戦争に敗れて国内では不況の嵐が吹き荒れ、国民の生活は窮乏の度合いを増して行った。

石狩平野

杉壮太との結婚

鶴代は大きなお腹を抱えて野菜売りの荷車を曳いていた。母ミネは相手の男が誰か何度も聞いたが、鶴代は絶対に言わなかった。荷車を曳いていて、つわりで気分が悪くなりしゃがみこんでいたところ、声をかけてくれた男がいた。その男の顔をみたところ、杉壮太であった。

杉壮太は南部屋でランプ屋の修行をしていたが、生来の生き物好きが収まらず、南部屋の金を持ち逃げして北海道東部でサンショウウオ探しをしていた。数年ぶりに札幌に帰って南部屋に詫びを入れに行ったが、南部屋の女将から門前払いされたのだった。

鶴代は壮太を丸山の自宅に招き、その日は家に泊めた。母ミネも壮太を歓迎した。次の日から壮太は鶴代と一緒に荷車を曳いて野菜売りをするようになった。壮太は鶴代の体をそれとなく気遣っていた。ある日、2人で荷車を曳いていたとき、壮太が鶴代に結婚を申し込んだ。鶴代は「考えさせてくれ」と返事を保留した。

鶴代は壮太との結婚を受け入れ、形ばかりの結婚式をして夫婦となった。お腹の子が私生児とならなかったことに安心したのか母ミネは間もなく他界した。明治23年、鶴代は女の子を出産し明子と名付けた。

鶴代が伊住家で奉公していたとき一緒に下働きをしていた加瀬倉吉が亡くなり、身よりのなかった倉吉は鶴代と壮太に遺産として多額の現金を残していた。壮太は倉吉の遺産で帽子店を開店することを考えた。杉帽子店は日本の洋式化の波に乗って繁盛し、従業員数人を抱える大店となった。明子は小学校に通っており、週に1回琴の教室で琴の習い事をしていた。

伊住農場

次郎は札幌郊外の茨戸で農場経営をしていた。刑務所出所者などの人達を共同出資者として共同組合形式の農場を営み、農作物の売り上げを共同出資者に分配する方式を推進していた。次郎は同居していた盲目の弘子と結婚し、男の子1人を授かっていた。

次郎の元に匿名の手紙が届き「鶴代の子どもは次郎の子だ」との内容が書かれていた。更に、明子が通っている琴の教室の地図も書いてあり、次郎は琴の教室への道路で明子を待っていた。明子を一目見た次郎は、明子が自分の子だと直感した。次郎は明子を連れて琴の店へ行き、鶴の絵柄の琴爪を買ってあげた。

明子の帰りが遅いのを壮太と鶴代は心配していたが、やがて明子は帰宅した。どこへ行っていたのか聞いたところ、おじさんと琴の店へ行った、と言って鶴の絵柄の琴爪を見せた。鶴代は、次郎が買ってくれたのだ、と直ぐに分かった。

次郎の死

明治31年9月5日から8日まで降り続いた豪雨により北海道全土の河川が氾濫した。札幌市郊外の茨戸川も氾濫した。創成小学校児童が丁度茨戸川で船下りの遠足をしており、茨戸川の氾濫に巻き込まれた。次郎は氾濫に巻き込まれた明子の船を茨戸にある農場に誘導しようとしたが濁流の勢いが凄まじく、明子ともう1人の児童が船から転落して濁流に呑まれた。2人の児童を船に助け上げたところで次郎は流木の直撃を受けて水の中に沈んだ。

黒雲と嵐の海

3日後、泥土の中から次郎の遺体が発見され、壮太と鶴代も葬式に出席して次郎との別れを惜しんだ。

明子の妊娠

明治37年、日露戦争が勃発し国民は招集令状により戦地へと駆り出された。一家の働き手の男子が招集されるとその日から生活は困窮した。

明子は15歳となり女学校に通っていた。女学校の男性教師が招集されるなど明子の周囲にも戦争の影が押し寄せていた。杉帽子店で長らく働いていた曽根が重病となり、鶴代と壮太そして明子は交替で看病していた。曽根の病状が悪化し、医者から「身内を呼んでおいたほうが良い」と言われた明子は鶴代たちに知らせるべく杉木立の雪道を急いだ。狭い道の向こうから男が来てすれ違いざま、男の頭巾の下から顔下半分が骸骨となった顔が見え、明子は悲鳴を上げた。怒った男は明子を組み伏せ凌辱した。明子はしばらく呆然としていたが、家に着いて鶴代に曽根の危篤を知らせた。

明子が部屋に閉じこもってばかりいるようになり、鶴代は心配していた。警察が来て、明子の角巻などが落とし物として届けられ、付近に争った跡がある、と知らせたことから鶴代は事態を把握した。しばらくして明子の体に異変があり、妊娠していることが判明した。鶴代は腹に帯を巻いて妊娠を装い、明子を伊住農場の加地のもとに預けた。明子は女の子を出産し、壮太と鶴代の実子として届けられた。

白百合館

明子はしばらく次郎の妹多佳子が経営するレストラン「白百合館」に預けられた。多佳子と暮らして、白百合館の経理を手伝ったりしていた。壮太と鶴代から離れて暮らして、日常から少し開放されて明子は元気を取り戻して行った。

明治43年、日本は韓国と日韓併合条約を締結して韓国を統治するようになり、清国やロシアへ進出の足場を築いていた。伊藤博文首相が中国のハルピンを訪れた際、韓国人安重根にピストルで射殺される事件が発生した。日韓併合条約に抗議する韓国国粋団体のメンバーだった安重根らの、日本の韓国統治に対するテロ行為であった。日本は韓国、満州、ロシアなどへの進出を画策しており、多額の出費が嵩んでいた。日本国内は不況の波が押し寄せて、生活は困窮の度合いを増していた。

この頃、明子は鶴代たちの元に帰った。明治43年秋風の立つ頃であった。

鶴代は、大雨や嵐を自分の中に取り込んで更に肥沃になってゆく大地みたいな女である。次郎への愛を秘めながら壮太、明子との人生を精一杯生きてゆく。鶴代、次郎、壮太など登場人物が生き生きと描かれ、壮大な人間讃歌である。

日本は韓国、清国、ロシアの利権を求めて他国への侵略を繰り返す。石狩平野で人生を送る鶴代たちであるが時代の波に翻弄され、日本が向かおうとする不幸な戦争に巻き込まれてゆく。時代考証が深く史実を正確に書いており、明治時代の為政者達がいかにして日本国民を侵略戦争に駆り立てて行ったかが忠実に書かれている秀逸な作品である。

続・石狩平野(大正・昭和編)も出版されている。

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