詩人中原中也は30歳で夭折した。フランス印象派の詩人ヴェルレーヌ、ランボーなどの影響を受け、印象的・感覚的な詩風の作品を書いている。言葉の調べを基調として旋律のような世界を醸し出した近代詩の巨匠である。
詩集「山羊の歌」
昭和9年、中也の最初の詩集「山羊の歌」が刊行された。日常生活の中に題材を得て、中也独特の言葉で日々の営みを表現しており共感を得られる詩が多い。
「朝の歌」の書き出しでは、
天井に朱きいろいで 戸の隙を漏れ入る光、鄙びたる軍楽の憶い 手にてなすなにごともなし
と朝の目覚めの景色を「朱きいろい」と表現し、朝の気怠い目覚めを歌っている。
「サーカス」では空中ブランコの振れる様子を
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
と中也の得意な言い回しで訴え、読者の想像を掻き立てている。

汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れっちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる
「汚れっちまった悲しみに・・・」では悲しみの心に風や小雪が降りかかって、自分ではどうにも制御できない心の空虚が見て取れる。
その他の山羊の歌での詩は、中也の歩んで来た人生の後悔や希望を込めて、怠惰ながらも必死で人生を歩んで行こうとする中也の気概が散りばめられている。
長男文也の死
昭和8年、中也は遠縁の上野孝子と結婚し、翌年長男文也が誕生している。文也のことを中也は目に入れても痛くないほど可愛がったそうである。詩作にも打ち込み、この年最初の詩集「山羊の歌」が刊行されている。

詩作も家庭も順風満帆であったが、昭和11年、文也が2歳で病死した。中也の落ち込み様は大変なものだったそうである。酒を浴びるように飲んで荒れすさび、精神に変調を来してしまった。文也の死の翌年、中也は脳膜炎を発症して30歳の短い生涯を閉じた。
島崎藤村は売れない頃、貧乏による栄養失調のため3人の娘を亡くしている。このころの悲しみや絶望を「春」や「家」に書いている。作品に気持ちのすべてをぶちまけて立ち直り、その後3男1女に恵まれて「破戒」や「夜明け前」などの作品が売れるようになった。
藤村は小説に気持ちのすべてを吐き出して立ち直ったのであるが、中也は詩に気持ちを出せずに悲しみが身中に蔓延ったと思われる。詩は小説と違って心情を吐露し切れないものなのか、と思う。
詩集「在りし日の歌」
中也の死後、中也の2番目の詩集「在りし日の歌」が刊行された。タイトルの「在りし日の歌」からは中也が自分の死を予感していたのでは、と思わせられる。この年、中也の翻訳による「ランボー詩集」も刊行された。
ホラホラ、これが僕の骨だ、生きていた時の苦労にみちた あのけがらわしい肉を破って、しらじらと雨に洗われ、ヌックと出た、骨の先
「骨」では自分の骨を見つめる自分が書かれている。死の予感に囚われて、死後の自分の骨を見つめる、という妄想の世界が感じられる。
「春日狂想」では
愛する者が死んだ時には、自殺しなきゃあなりません 愛する者が死んだ時には、それより他に、方法がない。
と文也の死に直面して、自分も死ななければならない、という強迫観念のような詩を書いている。
私は随分苦労して来た。それがどうした苦労であったか、語ろうなぞとはつゆさえ思わぬ。そして私は、静かに死ぬる、座ったまんまで、死んでゆくのだ。
「わが半生」では苦労して来たこれまでの人生を回顧し、静かに死んで行く自分を歌っている。在りし日の歌には「死」が至る所に出て来る。文也の死が中也の心を相当蝕んでいたことが窺える。

中也の業績
中也の出版された2冊の詩集「山羊の歌」と「在りし日の歌」、そして「ランボー詩集」は当時の文学界に大きな影響を与えた。フランス印象派の詩人ヴェルレーヌ、ランボーらの詩風と日本の詩風が融合された近代詩の幕開けであった。中也の死後、創元社と角川書店から「中原中也全集」が刊行された。
昭和50年代から中也の詩は注目され出した。小学校の教科書に中也の詩が掲載され、歌手加藤登紀子が中也の詩に曲をつけて歌い、文学界のみならず一般大衆にも中也の名が浸透した。
平成6年、中也の故郷である山口市に中原中也記念館が建設され、中原中也賞が設けられた。