シッダルタ
シッダルタは父母と3人で暮らす青年である。シッダルタは賢く、授けた知識を吸収する様を見る度に父は心の中に喜びを感じていた。また、シッダルタの立ち居振る舞いや歩く姿を母は誇らしく思っていた。容姿端麗なシッダルタが街を歩くとき、若い婆羅門(僧侶)の娘たちは恋焦がれてシッダルタを見た。
シッダルタにはゴヴィンダという、シッダルタと共に婆羅門の教えを追い求める親友がいた。ゴヴィンダはシッダルタが深い思慮と強い意志を持ち、尋常の婆羅門僧にはならない人だと思い、シッダルタの従者として彼に従うことを望んでいた。
すべての者がシッダルタを愛して、シッダルタも人々に喜びを与えた。しかし、シッダルタは心の中に飢えを感じていた。父母の愛や婆羅門たちの教えにも満足できずにいた。
沙門たち
ある日、シッダルタは道行く沙門(修行僧)たちの一団を見た。腰布のみの衣服で厳しい修行に各地を遍歴する沙門たちに同行し修行を積みたいと考え、父からの許しを乞うたが父は許してくれなかった。辛抱強く父を説得し、父の許可を得てシッダルタは沙門たちに同行して修行の旅に出た。ゴヴィンダもシッダルタに同行した。
シッダルタたちは腰布一枚の着衣で諸国を遍歴し、断食や瞑想などの修行をして歩いた。顔は削げ、手足は木の枝のように細くなり、目だけがギラギラとしていた。シッダルタは沙門たちから多くのことを学んだ。瞑想による滅我の道、苦痛や飢えの感受と克服の道など厳しい修行を受けた。
ゴータマ
シッダルタたちの修行場所に高尊ゴータマの一団が修行にやって来た。高尊ゴータマは涅槃に達したとか、数々の奇跡を行ったと言われる解脱者であった。シッダルタたちは高尊ゴータマの説法を聞き、その真理と真我に耳を傾ける日々が続いた。
高尊ゴータマたち一団が修行場所を移動することとなり、ゴヴィンダはゴータマに同行することにしたが、シッダルタはゴータマたちとは同行しなかった。
ゴータマは解脱の教義を授けてくれたり、正しい生き方を説いてくれたが、何人にも解脱の教義は言葉や教義によって授けられるものでなく、自己の修行や瞑想など自身の内から体得すべきものである、とシッダルタは考えていた。対面での意見の交換や言葉のやり取りは無益であると思い、ゴータマの説法や教義を授かる修行とは別の道を歩くこととしたのである。
カマラ
ひとり修行の道を歩いて諸国を遍歴し、遊女カマラと知り合った。カマラはシッダルタの貧しい身なりを見て、手っ取り早く着物、金、靴を手に入れる方法としてカーマスワミーという商人を紹介した。シッダルタはカーマスワミーの元で商売を手伝い、綺麗な着物、高価な靴、沢山のお金を持つこととなった。
時折カマラのもとを訪ね、カマラから愛の技巧を学んだ。シッダルタは娼婦と遊び、宴会を楽しみ、賭け事に嵌まって行った。何年も愛欲の生活を享受し、酒、女、賭け事に耽った。
ある日、カマラの飼っていた鳥が死んだ夢を見た。鳥に近づいて手のひらに載せて見てから外に放り投げた。その瞬間シッダルタは自分のあらゆる価値、あらゆる善い物を投げ捨ててしまったような気がした。夢から覚めたシッダルタはマンゴーの木の下で、父母やゴヴィンダ、高尊ゴータマなどを思い、再び旅に出て修行する決心をした。
このとき、カマラはシッダルタの子どもをお腹に宿していた。
河のほとりで
修行の旅をして来たシッダルタは大きな河のほとりに辿り着いた。河はいつも通りに流れ、多くの水を運びながら昔からそこにある。シッダルタは太古のときを超えて自然のままに流れて存在する河のほとりで暮らすことを決意した。
河を渡るお客のために渡し守のヴァズデーバがいた。ヴァズデーバは毎日河を渡るお客のために櫂を操って舟を出していた。シッダルタはヴァズデーバの小屋に宿泊させてもらい、渡し守の仕事を手伝って暮らした。ヴァズデーバはシッダルタの話をよく聞いてくれた。シッダルタの少年時代、解脱を求める修行の話などを静かに聞くのだった。
高尊ゴータマが臨終だとの知らせが国中に流れ、多くの婆羅門が見舞いに訪れた。カマラも子供と共に河のほとりに現れた。年老いたカマラをシッダルタは直ぐに分かった。カマラは連れていた子供をシッダルタの子供だと教え、子供の名前はシッダルタと言った。カマラは高齢のためヴァズデーバの小屋で亡くなった。
子
シッダルタは小シッダルタを育てることとし、ヴァズデーバも協力してくれた。しかし、カマラの元で裕福に育った小シッダルタはシッダルタの貧しい生活に馴染めなかった。何かにつけてシッダルタと小シッダルタは衝突し、シッダルタは悩んでいた。
ある日、シッダルタは小シッダルタに柴を集めるよう命じたが、小シッダルタは動かなかった。そしてシッダルタに「僕を信心深い信仰心のある人間にしようとするな、お前のような人間になるくらいなら追いはぎか人殺しになってやる」と言って小屋を飛び出し、二度と戻って来なかった。
オーム
シッダルタは河と向き合って対話する日々を送った。舟で渡るお客の中には子供連れの者もいた。人々は普通に子供を持って暮らしているのに、なぜ自分は子供と生活できないのか、河のほとりで瞑想する日々が続いた。
ヴァズデーバとの対話の中で、すべての自然の在り方を自然のまま受け入れ、喜び、悲しみ、善と悪など一切の出来事を学び自己のものとする術を感じた。シッダルタの目指すものはオーム(完成)であった。
ヴァズデーバはシッダルタの様子を見て、シッダルタを河のほとりに残し森の中に消えた。
ゴヴィンダ
ゴヴィンダは河のほとりに高名な渡し守がいる、との評判を聞きやって来た。渡し守から解脱や涅槃の教義を聞こうとした。年老いたシッダルタをゴヴィンダはシッダルタと分からなかったが、シッダルタは直ぐにゴヴィンダと分かった。
ゴヴィンダが見たシッダルタは微笑みを浮かべてゴヴィンダを見つめており、その微笑みは高尊ゴータマと同じ微笑みであった。ゴヴィンダはシッダルタの顔に唇を触れた。シッダルタの中から安らかな、高貴な千様の仏陀の微笑みが浮き上がるのを見た。ゴヴィンダは涙が止まらず、最も謙遜な崇高の念が火のように彼の心の中に燃えた。
「シッダルタ」はヘッセがインド仏教の始祖釈迦牟尼(ゴータマ・シッダルタ)の生涯を書いた作品である。裕福な家庭を捨て修行の旅に出たシッダルタは、断食と瞑想の修行を通して徹底的に自己の内面と向き合った。煩悩からの解脱、衆生の救済、涅槃の到達など日々自己と向き合って瞑想した。
沙門たちとの修行をして高僧でさえも涅槃に到達できない現実を見て、シッダルタは一人で修行の旅に出て行く。瞑想の日々から放蕩の日々を過ごし、子供とのままならない生活を経験してオームに近づいて行く。
シッダルタの修行仲間のゴヴィンダは、修行の途中でゴータマ一行と離別したシッダルタと別々に修行することとなった。それぞれ別の道を歩んだ2人であったが、河のほとりで再会する。渡し守として生きていたシッダルタに会ったゴヴィンダは、シッダルタの中に仏陀と同じ微笑みを見て涙が止まらずシッダルタの顔に接吻をした。シッダルタの心の中に、輪廻する世界の万物の営みを見たのだった。